2016年11月11日(金)の夢日記。
前回投稿した「SF小説が書けそうな内容の夢@夢日記」に引き続き、また奇妙な、かつこれまで見たことがないような夢を見ました。
夢の内容
私の他に若い男女が出演する映画に出ている。
ストーリーの最後の方で全員がアブノーマルな性行為を始める。
この映画が高校で上映されることが決定され喜ぶ。
夢分析
覚えているのこれらの部分だけですが、目が覚めてからすぐに自分なりに夢の意味が分かりました。
異性愛とは自然の摂理ではなく1つの主義に過ぎないとの考えの反映
まずは映画の最後のアブノーマルな性行為のシーンについてです。
これは一般的な価値観からすれば、乱交とも形容されるような批判に曝されるような行為です。
ですが私にはこれが昨日から読み始めた『ジェンダー研究のフロンティア 第五巻 欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象/格闘する理論』にも書かれていますように、一般的には正常と考えられている異性愛が異性愛主義という1つの主義、つまりそれは自然の摂理というよりもイデオロギーという思考の産物に他ならないことを、性についてのノーマルな考え方に対するアブノーマルという対比で表現されたもののように思えました。
またその表現が性行為の形を取っているのは夢特有の歪曲化によるものであり、私自身も奔放な性行為に特に関心はありません。
私の関心はあくまでジェンダーフリーな社会の実現です。
異性愛が1つの主義として相対化され、同性愛がアブノーマルとは見なされない社会の実現
次に夢の最後の、映画の学校での上映が決まりそれを喜ぶシーンも、異性愛が1つの主義として相対化され、同性愛がアブノーマルとは見なされない社会の実現を願う気持ちの反映のように思えます。
ご承知のように学校は、教師のみならず教育委員会やPTAなどによるコントロールの強い閉塞的な空間です。
そのような学校においては、表向きは「多様な価値観の尊重」を謳いながらも、実際は性的な事柄に限らず、あらゆる逸脱に関してむしろ不寛容な印象を受けます。
ですから学校は不寛容社会の象徴的存在として登場したものと考えられます。
セルフポートレイト作品の発表
続いて映画に私が登場しているのには、今現在写真家としてのアーティスト活動において、性やジェンダーをテーマとした作品制作を進めており、先日所属のギャラリーで撮影したセルフポートレイトをいずれ作品として発表する予定ですので、そのことの反映と思われます。
※自分自身を作品として撮影したのは今回が初めてです。
作品が好奇の目で見られたり制作意図を歪曲して理解されてしまう心配が反映された夢
最後にこれまで述べた夢分析は目が覚めてすぐに思い浮かんだことですが、今この記事を書いていて別の連想が働きました。
それは前述のセルフポートレイトに関するものです。
この写真作品には一般的には芸術作品と言えども公衆の面前で見せてはならないとされるものが写っています。
私はそのような写真をコンセプトの必要性から大真面目に撮影したのですが、しかしそれでも好奇の目で見られたり、あるいは制作意図を例えば「展示の常識への挑戦」などと歪曲して理解されてしまう可能性を危惧しています。
夢はその懸念を一般的にアブノーマルと考えられているものを登場させて表現したんではないかと考えられます。
この意味が一番しっくりきますので。
※自分の行いが、その内容ではなく専らそれ以外のことで評価されてしまうことを、アーティスト活動に限らずこれまで何度も経験しています。